(5)欲望という名の神

 ものであれ、人であれ、なんらかのものに自分の存在を過度に依存させるなら、それもまた多神教だといいましたが、もう1つ、さらにやっかいなものを私たちの多くは「神」としています。それは、「私」です。クルアーンの中でアッラーは、『おまえは己の欲望を神とするものを見たか』(第25章43節、第45章23節)と仰せられています。

 外に一切の「神」を持たない者は、自分自身を神とし、自分の欲望の声をまさに至上命令としてそれに聞き従うようになります。自分では自分こそが欲望の主のつもりでしょうが、欲望の声に突き動かされ、なりふり構わずその望むところを実現しようとするなら、私は私自身の欲望を神とし、それにしもべとしてかしずいているにほかならないのです。

 この多神教のやっかいなところは、自分が多神教に陥っていることに気づきにくいことです。そのため、無神論者ばかりか、信仰者ですら、知らず知らずのうちにこの多神崇拝を犯していることがあるのです。「アッラーのほかに神はいない」ということを知っていながら、アッラーの命令よりも己の欲望の声を優先させるなら、それは、アッラーと並べて己の欲望を神とし、その欲望の神に聞き従ったということになるからです。