フランスにいたるまで

 1990年12月、フランス文学を大学で専攻する私は、パリで4度目の冬を迎えていた。渡仏当初予定していた2年の留学期間はとうに過ぎていたが、実入りのいいアルバイトがあって生活の心配がなかったことと、日本に帰っても先の見通しがなかったことから、ずるずると滞在を引き伸ばしていた。年が明け1月になれば私は30だった。30ともなれば、さすがにのんきな学生を続けている訳にもいかない、いよいよ身の振り方を決定しなくては、と内心焦りを覚えていた。

 学生とアルバイトの二重生活に終止符をうち、フランスに身を落ち着けることを決め、翻訳、通訳業を本職とするか、それとも日本に帰って学業を終え、大学にフランス語教師のポストを求めるか、どちらかひとつを選択すべきだった。それはわかっていたが、どちらを選ぶにも躊躇があった。私が大学を出てもすぐ就職せず大学院に進学し、さらに留学したのもみな実社会に出ることへの同じ躊躇があったからだった。

 私にとって実社会に出るということは、無数にあるレールのうちのひとつを選び取り、そのまま行き着く先の見える列車に乗ることだった。しかし、私にはどの列車に乗ることも出来なかった。どこに行き着いたら良いのかがいつまでたっても見えて来なかったからだ。いや、確かにある1つの目的地、どうしても行かなくてはならない目的地があることがわかっていたが、それがなんなのか、どこにあるのかがどうしてもわからなかったのだ。

 私が単なるへそまがりから人気のあった英文学の代わりに専攻したにすぎない仏文に執着し、大学院まで進んだのも、フランス文学を通してその解答を求めていたこともあったが、むしろ時間稼ぎがその主な理由だった。いわゆる「モラトリアム」と呼ばれる症候を呈していたのだといえばそれまでだが、どんなやり甲斐のある仕事も、どんな評価の高い地位も、あるいは一般に幸福の形と考えられている結婚も、様々な楽しみも、私の求めている「なにか」を見付けないことには、時間の浪費としか思えなかった。一旦実社会に出てしまえば、目先の忙しさに追われ月日を無為に過ごしてしまうことは必定だった。組織の一歯車となって時間に追われる忙しさを充実と取り違え、大目的を忘れる恐れもあった。だから、「学生」という肩書は、私にとっては貴重な隠れ蓑だった。

 私はしばらく前から、私の求めているその「なにか」、私の心が強力な磁気に引き寄せられるように引き寄せられている「なにか」の正体に気づいていた。それは「神」だった。私は神がいるのか、いないのか、その答えがどうしても欲しかった。そして、その答えを得た上で自分の生き方を考えたかった。いないならいない、いるならいると結論を出すまでは次の1歩が踏み出せなかったのだ。その答えを得ずして死ぬようなことがあったら、死んでも死に切れない、という切迫した思いがあった。

 私が「神」の問題と付き合うようになったのは遅く、大学に入ってからのことだ。それまでは神のことなど真剣に考えたこともなく、またその必要もなかった。万事は順調で表面的にはまったく幸福だった。ただ、どうしても解けないパズルを抱えているような釈然としない思いがぼんやりとあった。その思いは、大学に入り受験勉強から解放され、自己を振り返る余裕ができると強くなった。

 そうした生に対する漠然とした不安、自己の中に抱える異質感というものに「不条理」という言葉を与えてくれたアルベール・カミュを私は卒論のテーマに選んだ。扱った小説のタイトルは「異邦人」だった。そのときすでに「イスラーム」という我が家を求める私の旅は始まっていたのだと思う。

 私が宗教に興味をもったのは、1つの思想としてだった。大学に入るまでは周囲に信仰をもった者を知らず(祖母の阿弥陀仏信仰など私の目には老人の迷い事にすぎなかった)、神のことなどあるともないとも、そんなことが疑問にすらならなかったが、大学に入りカミュ、サルトル、ニーチェなどの書に親しむにつれ、無神論をはっきり意識するようになっていった。潔癖な私は、さして信じてもいないのに気の弱さから厄除けの札をもらったり、単なる習慣から神社にお参りしたりすることが厭だった。信じないのなら信じないものとして生きたかった。

 実存主義的な生き方を自分の生き方として選びつつある一方で、しかし私は、宗教の存在、神を信じる人々がいる、という事実にも興味をもった。信じる人がいるからにはなにかあるのだろう、まるでないものをあるとはいえないだろう、と思った。人のなかには、「神などいるわけがない」と頭から信じ込み、それが本当かどうかを確かめてみたい、という気すら起こさない人がいるが、そういう人は私には、わけもわからずに神を信じる人と同じくらい盲信的に見えた。私達は科学的に神の存在を実証することは出来ないが、そうかといってその存在を否定しきるだけの確証も実はもってはいないのだ。普段から論理的なものの考え方に慣れた人が、この領域に近付くやぱったりと判断を停止し、「ないにきまっている」の一言でけりをつけ、それ以上はがんとして先に進もうとしないのをよく見掛けたが、私はその先の「真実」を知りたかった。

 信仰生活に入る人の中には、自力では乗り越えがたい人生の困難に直面し、切実に救済を望んだときに神に出会った、という経路を経る人が少なくない。そういう出会い方もあるだろうと思う。幸福なときにはついぞ考えもしなかった大問題が、不幸を抱え、他の一切が無意味に化したときになって浮上する、ということはあり得ることだと思う。しかし、私はそういう「おすがり信仰」は好きになれなかった。学生時代の下宿には、よく宗教の勧誘者が来たが、「なにか苦しいことがないか」と聞いて来るのが常套手段だったように思う。

 困った時になってから助けて、というのはいかにも卑怯に思えた。普段からないものとして生きて来たのなら、困ったときでも1人でそれに立ち向かうべきだった。私は、私の愛した思想家たちから、たとえどんなに無力でもすべてをそっくり自分で引き受けて立つ勇者の生き方を学んでいた。すがるための宗教は弱者のものだった。それよりもなによりも、実を言えば、生まれてからこのかた万事が順調で、救いを求めずにはいられないような状況になど陥ったことがないのだった。

 私が宗教に求めたのは、「救済」ではなく「真理」だった。だから宗教勧誘者が訪ねて来れば暇のあるかぎりその話には付き合った。当時は学生運動への参加を訴えて来る学生も訪ねて来たが、彼らの話もよく聞いたものだ。要するに私にとっては「共産主義」でも「キリスト教」でもなんでもよかった。ただ私は、それを自らの信念とし、それにしたがって生きるための「思想」を求めていた。私は自分の「生き方」を探していたのだ。

 宗教には「死後の生」の問題がぬきがたくかかわっており、死の恐怖から逃れるために信仰に入る人も少なくない。しかし、私にとっては死後の事はどうでもいいことだった。まったくの無に帰すのなら、それはそれでかまわなかった。もっとも、自分のものにしろ他人のものにしろ死に直面するような経験はなく、真剣に死について考えたことなど実はなかった。いずれにせよ、当時の私にとっては死よりも生のほうが大問題で、クリスチャンになったらご褒美に「永遠の生」が得られる、と言われてもちっとも魅力的には思えなかった。来世のためにこの世を満喫せず、無理に禁欲生活を送るのは愚かしく思えたし、永遠の生という見返り欲しさに信仰する、というのは卑しく見えた。私の欲しかったのは真理だった。真理さえ知れば地獄に行ってもかまわなかった。

 もちろん大学に入ったばかりのころは問題はそれほど深刻ではなかった。下宿を訪ねて来たエホバの証人の女性と定期的に聖書を勉強するようになったのも軽い興味からのことだった。エホバの証人は他のクリスチャンからあまりよくみられていないようだが、彼らの解釈の正誤は別問題として、彼らの聖書に忠実であろうとする姿勢、人間が作り上げた伝統ではなく神の言葉に忠実であろうとする姿勢を私は今でも高く評価している。また、実生活の中に信仰を還元して行こうとする姿勢もすばらしいと思う。私の出会ったエホバの証人はみな誠実で信頼のおける人ばかりだった。ただ、なにかが違っていた。大学4年の春にフランスに留学するまで、聖書の勉強を続け、集会にもよく出るようになっていたが、最後までなんとは説明出来ない違和感を拭い去ることができなかった。聖書を神の書と認めるようにまでになりながらついに洗礼に踏み切ることができなかったのも、その「なにかが違う」という思いのせいだった。他のクリスチャンとも付き合ってみたが、いまひとつ真理をつかんだという確信が得られなかった。心に喜びが沸いて来なかった。神の存在を頭では理解しても心で感じることができなかったのだ。

 まったくの無神論者ならば心は穏やかだが、頭で神の存在を理解しながらそれに信仰をもてないというのはやっかいな事態だった。神の問題が抜き差しならない深刻さを持ち出したのはこのころだ。信じたいのに信じられない。教会で頭を垂れて祈ってみても空しい思いしか得られなかった。確かに神が存在するはずなのに私の感じるのは恐ろしい神の不在ばかりだった。人間の本性がもつプリミティブな「神」を恐れる気持ちを哲学で打ち消し切り捨てたせい、また知的な興味から宗教に接近したせいで私は神を心で感じることができなくなってしまっているのだろうか、と絶望的な思いに駆られた。

 やがてキリスト教から仏教、特に禅や密教、さらにヨガに興味が移って行ったのも、神を「感じたい」という思いからだったのだと思う。ああ悟った、という目からうろこの落ちるようなすがすがしい思い、あるいは絶対者との邂逅によってもたらされる高揚感を経験したかった。大学院時代は京都に住んでいたので、下宿の近くの禅寺に一時は毎朝座禅に通ったりもした。座禅は結局3か月で挫折してしまったが、夜のアルバイトで家に帰るのが午前1時過ぎになるような毎日の中でよくも早朝の座禅に1日も休まず通ったものだと思う。集中力にかけ、なかなか心を空にすることができなかったが、気持ちは良かった。ただ、座禅にしろヨガにしろ、大意識との一体感をもたらすよりは、むしろ自己の小意識と外界とのずれを広げるばかりだった。意識の深みの潜った後は元の状態にまで浮上するのに手間がかかった。指導がいけなかったのか、私が性急すぎたのか知らないが、私が求めるような体験は得られなかった。そのころは中沢新一のチベット密教の修行の話などを読んでいたから、いっそ私もインドにでもいって本格的なヨガの修行でもしようかしら、などと半分本気で考えたりもしたものだ。本当に本に書いてあるような超体験が得られるなら、どうしてこんななまぬるい、ぼんやりした、無意味な日々を送っていられよう、とともすれば居ても立ってもいられない気持ちになった。

 宗教は、虐げられた人々、貧乏人を黙らせ、幸福な気分にさせるオピウムだ、とは誰かの弁だが、私にとっても別の意味で宗教は麻薬のようなものだったのだと思う。つまり、今日の若者がより強い刺激、より強烈な生きているという実感を得るために、ロックミュージックに夢中になったり、スピード狂になったり、あるいは暴力や麻薬や性的な乱行に走るように、私は神秘的な体験によって自分の生を強烈に感じたかったのだと思う。ただ、残念ながら私は霊的な感性がまるで鈍く、不思議な体験をしたことが1度もなかった。友人には、トランプの数字を当てたり、スプーンを曲げたり、予知的な夢を見たと言う者もいるが、私にはそうした能力はゼロといってよかった。

 そうこうするうちにフランス政府の奨学金がもらえることになり再び渡仏することとなった。研究のテーマは、カミュの「異邦人」から現代版ロビンソンクルーソー物語を扱ったロビンソン神話、さらにノマディスム(精神的遊牧主義)に移っていた。つまり私の精神は社会との同化を求めるどころか外へ外へと向かっていた。あらゆる限定、固定化から身をかわし、外に逃れたかった。

 私が日本を離れたかったのも固定化した日常生活、コード化した人間関係にあきあきしていたからだったのだと思う。すべては円滑に機能していたが、誰もが大問題から目をそらそうとして喜劇を演じていように思えた。喜劇の一役を買うのはごめんだった。むろんフランスに行けばフランスで別の喜劇が待っているだろうけれど、外国劇の方がまだましだと思った。