あとがき

 エジプト滞在中、毎晩のようにイスラームの勉強をしてくれたエジプト人姉妹が、アキーダ(イスラームの信仰箇条)の本を読んでいた時のことだったと思うが、「非ムスリムはカーフィル(不信者)であり、カーフィルは火獄行きだ」と言ったことがあった。ムスリムならば誰もが当然と信じるその言葉に私は胸を貫かれ、涙を流さんばかりに怒りを表した。ムスリム国に暮らすボーン・ムスリムならば身内も知人もすべてムスリムだろうから、遠い国の非ムスリムたちが永遠に火に焼かれようと、わずかにも痛みを覚えることはないだろう。しかし、非ムスリム国で生まれ育った改宗ムスリムの場合はそうはいかない。愛する家族も、親しい友人も、さらには、道で挨拶を交わす近所のおじさんも、偶然バスで隣合わせに座った見知らぬおばさんも、みなカーフィルなのだから。「カーフィルは火獄行きだ」と言って心安らかにいられるはずはなかった。しかも彼らは神を拒絶しているのではなく、ただイスラームのことを知らないだけなのだ。

 できることなら道行く人の1人1人を呼び止めて、「神は本当にいます。イスラームこそ真の宗教です。」と言って回りたい。イスラームに出会う以前の私がそうだったように道を見つけあぐねている人に、イスラームの道を示してあげたい。入信から1年後に書いた「入信記」の中で吐露したこの思いは、5年経った今も変わらない。

 今年の8月、ロサンゼルスで開かれたイスラーム連帯会議で私は、新たな精神世界への扉を私に開く師との出会いを得た。振り返るに、夫シャイフ・ハサンとの結婚は、私をイスラームの知的世界への扉を開くものだった。今回の、師との出会いのきっかけを意図せず作ったのも夫であった。

 夫のおかげ、師のおかげ。しかし、と私は思う。そうではなくて、夫も師も、アッラーが私のために備えられた鍵、つまり道具でしかないのではないか。夫や師のおかげで今の私があるのではなく、私のために彼らはあるのだ。そして、そういう私自身も、誰かのため、私との出会いを待っている誰かのための道具でしかないのだろう。私たちはすべて、アッラーの道具、アッラーの意のままに動かされる駒なのだ。

 『宗教に強制はあってはならない。正しい道と迷妄とはすでに明白にされている。』(クルアーン第2章256節)イスラームの正しさは、知れば自ずと知れることである。導きはアッラーの御手にかかっている。私が、そして本書が、アッラーの導きのささやかな手段となることを祈る。

1996年9月9日        ハウラ中田香織