導入部

 リヤド空港に着いたのは朝の4時半、空港でファジュル(夜明け前)の礼拝を行い、明けつつある街の中をタクシーで家に向かった。丸1週間のハッジ(巡礼)旅行の終わりだった。夫も私も疲れ切っていた。帰った当日は、礼拝のために起きては寝、食事のために起きては寝、電話線も切って1日中寝ていた。前日あたりから喉の痛みを訴えていた夫は、どうやらキャンプ場で流行っていたインフルエンザをハッジ土産に持ち帰ったらしく、夜になって発熱した。疲れのせいでなかなか寝付けなかった私は、夢うつつの状態で金縛りに会い、思わず「アウーズ ビッラーヒ ミナッシャイターニッラジーム」と悪魔よけの言葉を叫び、自分の声で目が覚めた。驚いて飛び起きた夫は、熱が本格的に上がりつつあるようだった。

 ハッジに来ることのできる者がそう多くないインドネシアなどでは、ハッジを果たした者は大層な尊敬を集め、名刺にも名前の前に「ハーッジュ」の称号を付けるようなことがあるそうだと聞き、行く前には「大袈裟な」と夫と笑っていたのだが、ハッジから帰ってみると、いくら威張ってもいいと思うほどハッジは苦行であった。若い私たちがサウディ国内から行ってすらこれほど疲れ切っているのだから、遠い国から高齢でやって来る人達の辛さはいかばかりかと思う。ハッジの間、事あるごとに思い知らされたのは、いかに私たちの境遇が恵まれているか、であった。アッラーに対する感謝の気持ちを忘れたら、日本式に言えば「バチが当たる」という思いを強く持った。第一、多くのムスリムが生涯の夢としてこつこつと旅費を貯め、人生の終わり近くになってやっと果たすハッジを、ムスリムになってまだ2年半しか経っていない私がこれほど簡単に果たしていいものだろうか。この恵みはどう感謝しても感謝しきれるものではないと思う。

 クルアーンの第109章「不信仰者」には「不信仰者よ、あなたがたは私の信じるものを信じない。私はあなたがたの信じるものを信じない。あなたがたにはあなたがたの宗教があり、私には私の宗教がある」という句があり、ハッジの起点で行う礼拝の際にもこれを読むことになっている。かねてから私はこの章を、非ムスリムに対する差別意識、あるいはムスリムの選民意識が現れているようであまり好きでなかった。しかし、今回ハッジの最中に強く実感したのがこの章の言葉であった。人込みに揉まれながら、歩き疲れながら、「あなたがた」は「私たち」の信じるものを信じない、私たちの信じるこれこそ宗教である、という思いが何度も心をよぎった。