11月25日

 2泊3日で夫とマッカ、マディーナを旅した。サウディアラビアに住むことが決まって以来、ずっと心待ちにしていた旅行だ。この2つの地はムスリムにとってはあこがれの地で、私を送り出す知り合いは口々に、マッカに行ったら自分のことを祈ってくれ、と私に言った。カアバ神殿での祈りは他のどの地にもましてアッラーに聞き届けられるからだ。カイロで世話になったウンム・アブダッラーからも、より一層の信仰をもてるように、そしていつの日かハッジができるように祈ってくれ、と頼まれていた。私にしても、自分自身のためはもちろんだが、遠い日本から彼の地に熱い思いを寄せている姉妹たちのことを祈るためにもぜひ行かなければ、という使命感めいたものがあった。

 日本にいたら小巡礼ウムラですら一生に1度の思いをもってしても果たせるかどうかわからないのに、ムスリムになって2年にも満たない私が、こんなにもやすやすとムスリムの宿願を果たせたこの祝福をアッラーにどうやって感謝すべきか。

 ウムラの手順としては、マッカに入る前に男性はイフラームという巡礼着に着替える。巡礼着といっても大きなバスタオルのような白布2枚で、1枚は腰に巻き、もう1枚は肩からかける。頭は剥きだし、足は裸足でサンダルばきだ。なお、女性のほうは普段通りの格好でかまわない。

 私たちはマッカから車で1時間ほど離れたターイフのモスクで着替え、巡礼のスタートを意味する礼拝を行った後、マッカに向かった。イフラームを着たあとはもう無駄口はきかず、一心にアッラーを思い、「ラッバイカッラーフムマラッバイカ・・・(アッラーよ、私はここに。私はこうしてあなたのために馳せ参じました」という言葉をひたすら繰り返す。

 ターイフからマッカにかけてはずっと小山が続く。もちろんみなわずかな茂みがあるだけの裸山だ。色具合からラクダの背中を連想させる。大きな石もごろごろしている。大地が創られたばかりのころとほとんど変わっていないのではないかと思わせるような、日本人の目には奇妙に荒々しい風景だ。

 マッカに向かう途中で日が暮れ、マグリブ(日没後)の礼拝の時間となった。ところどころで人が道路脇に車を止めて礼拝している。アッラーは大地のいたるところをムスリムのために清め、マスジド(平伏礼をする場所)とされたのだ。残照の中に浮かんだ祈る人影がとても美しい。

 いよいよマッカに入るという地点に差しかかると、道路脇に「イスラーム教徒以外立ち入り禁止」という看板が目に入った。数か国語で表示されているが、なんと驚いたことに日本語もある。世界のいたるところに日本人旅行者が出没する昨今だが、ドライブ中にマッカの聖域に迷い込む日本人がいるのだろうか。検閲があるかと思ったがそのままノンストップで通過、マッカの町に入った。

 マッカは小山の折り重なる間にできた小さな町で、四方が山なら、町自体も坂だらけだ。小さな細いホテルが幾つも建っている。私たちはカアバ神殿のすぐ前のホテルに一旦荷物を置くと、夜の礼拝の時間が差し迫っていたのでほとんど一息つくまもなく聖モスクに出掛けた。

 足を踏み入れることを想像しただけで涙が滲んだ宿願のカアバ神殿だった。実際に行ったら泣き虫の私のことだからどれだけ涙を流すかと思っていたのだが、行ってみると物珍しさのほうが先立ってあまり感動がない。

 巡礼の儀式としてまずカアバの回りを7周する。オーストリアのジャーナリストでムスリムとなった、ムハンマド・アサドは、著書「メッカへの道」の中で、7周のタワーフを衛星の動きにたとえ、人間の全ての営み、精神生活だけでなく生活すべてが神を中心に回転していることを象徴する行為だ、と言っていた。夫と腕を組み、メモしてきたドゥアー(祈り)の言葉を小声で読みながら回り始めたのだが、巡礼者がごちゃごちゃいて、あまり神妙な気持ちになれない。聖モスクに来た実感がわいて少しジーンと来たのはそのあとで2ラクアの礼拝をし、冷たい大理石の床に額をつけたときだった。

 ザムザムの水で喉を潤したのち、息子のために水を求めて2つの小丘の間を7回いったりきたりしたアブラハムの妻ハガルに倣って、そこを3回半往復する。ハガルの息子こそアラブ人の祖であるイシュマエルであるが、彼が喉の渇きを訴えて足を踏み鳴らすと水がわき出た。それがザムザムの泉と呼ばれ、今日までカアバを訪れる信者の喉を潤している。願い事を込めて飲めばそれがかなえられるという。医者からサジをなげられた病人がこの水を飲んで回復した、という話も聞いたことがある。普通の水と明らかに味が異なり、やわらかい甘い感じがする。ザムザムの泉、というので岩の間から水がわき出ているのかと想像していたが、水は水道の蛇口から出てくるのだった。マッカに行く前に、すでに2度ウムラをしたことのある夫にどんな感じの所か尋ねたところ、大衆浴場のようなというのが一番ぴったりな形容だろうね、との答えだった。そう言われても見当がつかなかったが、実物を見てなるほどと納得した。蛇口がずらっと並び、それが何列も連なっているのだ。男性はバスタオルのような白い腰巻と肩掛け姿だから、まさしく浴場といった雰囲気に違いなかった。

 3往復半するサファーとマルワと呼ばれる2つの丘はもともとはモスクの外にあったらしいが、今ではモスクの一部に組み込まれていて、2つの丘の間も大理石ばりの長い廊下になっている。丘だけが岩肌を出しているが、いかにも作り物めいていて、動物園の猿山を思い出させる。往復で400メートルほどだが、大理石の上を裸足で歩くので結構足が疲れる。老母の手を引く息子、車椅子に乗った妻を押す夫の姿などもあった。

 サアイと呼ばれるこの行事が終わるとウムラは終了。過去の罪を洗い流した巡礼者は、新たな再スタートを象徴する意味で髪を切る。象徴的に一掴み切り落とす者もいれば、すっかり剃り落とす者もいる。ホテルに戻り、イフラームを脱いだ夫の髪を私は短めに切り揃えた。

 翌日は、夜明け前の礼拝に聖モスクに行き、そのあと再びベットに戻り、昼近くになってからタクシーをつかまえてハッジのコースを案内してもらった。インシャーアッラー、今年のズルヒッジャにはハッジを行いたいと考えているのでその下見をしようというのだった。

 大巡礼ハッジは、ウムラの内容に加え、マッカから8キロ先のミナーと呼ばれる地に寝泊まりし、そこからアラファートと呼ばれる平地に行き、そこで夕方までクルアーンを読んだり、ドゥアーをして過ごす。日没後ムスダリファという地に下り、そこで一夜を明かし、翌朝、悪魔に見立てた柱に向かって石を投げ、ハッジの締めくくりとして犠牲の羊を屠り、髪を剃る。タクシーの運転手の説明を聞きながらこれらの地を見て回った。今日ではこれらのコースを乗り物で移動する者が少なくないが、以前はこれをみな徒歩でやったのである。暑い季節には大変な苦行だったに違いない。実際、今でも毎年かなりの死者が出るらしい。そもそもハッジは一生に1度のことで、人生の終わりに近づいた老人が一生かけて貯めたお金でやっと宿願を果たすというケースが少なくないだろうから、ハッジの最中に命尽きることがあっても不思議はない。ムスリムにとってこれほど本望なことはないだろう。

 ハッジの季節には200万の巡礼者であふれかえるミナーの丘は、普段はほとんど人気がないだだっ広い平地である。そこを立派な広い道路が通っている。普段は私たちのようなムスリムの観光客がわずかに利用するだけの道である。また、丘の上に建てられた壁の向こう端が見えないような巨大なモスクも、年に1度、ハッジの巡礼者を収容するためだけのものである。非ムスリムに言わせれば信じがたい金の無駄遣いに違いない。サウディアラビアがハッジのために費やす金額はとてつもないものだろう。それができるのも石油資源があるからの一言に尽きる。この不毛の砂漠の地に石油が出たことがアッラーの祝福でなくなんであろう。

 一旦日本に戻ってしまったらサウディアラビアは遠い国となってしまうだろうから、今年のハッジはもう2度とないかもしれない絶好のチャンスだった。まだ6か月ほど先の話だが、その間に妊娠するとハッジは難しいかもしれない。どうかハッジに来れますように、聖モスクでは何度も繰り返しそう祈った。

 3時過にマッカを後にした私たちはジェッダ空港からマディーナに向かった。ジェッダまでは車で1時間あまりだったが、その間の道路の脇には、道路標識とまったく同じ青地に白で、アルハムドリッラーだとか、ラーイラーハイッラッラーなどと書かれた看板がところどころに立っていた。アッラーを信仰する地にいるのだなあとしみじみうれしかった。道路の両側にはひたすら土色の起伏が続いているから、小丘の脇にぽつんとそんな看板が立っていると丘が私たちにアッラーのことを思い出せと呼びかけているような気がした。

 預言者ムハンマド(彼に平安あれ)の遺体が安置されたマディーナの預言者モスクは、マッカの聖モスクに劣らず多くの信者であふれていた。外国からマッカを訪れた者はほとんど必ずマディーナに立ち寄って預言者(彼に平安あれ)に挨拶する。

 カアバ神殿がアッラーの家といっても、それは象徴的な意味においてであり、アッラーは天に君臨し遍在している。一方、預言者ムハンマド(彼に平安あれ)は生身の人間として実在した。かつて預言者が礼拝を上げた地で礼拝し、その遺体の眠る墓の前に立つと、彼の存在がありありと感じられて胸が一杯になった。