10月10日

 2週間の旅行を終えてリヤードの「我が家」に戻った。10日ほどしか住んでいないところに旅から帰る、というのは妙な気分だった。旅の最終地、パリは冬のコートを羽織る人もいるほどの肌寒さだったが、2週間ぶりに帰ったリヤードもずいぶんと暑さが和らいでいた。

 旅行はカイロに3泊、トランジットのチュニスに1泊、そしてアルジェに4泊。1週間しか休みをとっていない夫の旅はそこでおしまい。私はその後ひとりでパリまで足を延ばし、そこで1週間過ごした。

 約半年ぶりに訪れたカイロは、なにもかもが懐かしかった。10日ばかり住んだだけのよそよそしいリヤードの町から、知った町角、通り慣れた道のあるカイロに着いて本当に人心地の着いた思いがした。第一、自分の足で、自分の行きたい所に自由に出歩くことができるというのはいいことだ。リヤードでは、女性の1人歩きが禁じられていることを別にしても、なにしろ大きいからどこに行くにも車に頼らざるを得ない。歩くのは家の中だけ、という感じだからつまらないのだ。

 3日の滞在のうちに以前世話になった人達すべてに会わなければならないから、かなりのハードスケジュールだった。すべてが半年前とまるで同じだったが、以前はスカーフを被っていたハナーが上半身の隠れる長いヒマール姿に変わり、結婚を間近に控えたアマルは以前からの念願を果たし、顔を覆っていた。私が帰国する直前に、イスラームのことをもっと勉強する時間を作りたいからと2年間働いた日本の新聞社を辞めていたアマルは、それと同時に顔も覆いたかったのだけれどおかあさんの大反対にあって決行できずにいる、と語っていたが、結局自分の意志を通したらしい。おかあさんの反対の理由の1つは、顔を覆ったら結婚が難しくなるのではないか、という不安があったからだったが、アルハムドリッラー、ニカーブ(顔の覆い)をつけてから1週間後にしたお見合いが実って近く結婚することになり、今ではおかあさんも満足している、と語ってくれた。私もリヤードに着いた時から日本で作っておいたニカーブをつけていて、カイロにもそのままの格好で行ったから、もちろん形で判断するものではないけれど、半年の間にそれぞれが別の地で、しかしアッラーに近づく同じ1つの道をまた1歩進めていた証しを見るようで、ふたりの再会は胸の詰まるものだった。

 思い出してみれば、カイロに着いてまもなく、初めて真っ黒に頭の先から足の先まで覆った姉妹を間近に見たときには、その異様さに大変なショックを受け、いくらなんでもやりすぎだ、不自然だ、抑圧だ、と様々な思いが頭をよぎったように思う。ところが、そうした姉妹たちと身近に接し、彼女らの深い信仰生活に敬服するうちに、その格好に慣れるばかりか、それが理想的な格好と思えるほどに見方が変わって行った。一般のファッションでも黒が最高色とみなされるように、黒は高貴で、いくら着ても飽きがこない。また、すその長いゆったりした服は、気持ちを優雅で女らしくしてくれる。黒の正装を身につけると、家でくつろいだ格好をした時とは違った、りんとした緊張感と気品がでるのだ。

 ニカーブをつける女性のほとんどは顔を隠すことを義務だと考えているが、私は義務ではないように思う。この点については根拠となるクルアーンの言葉に曖昧性があるため、はっきりどちらと言い切ることができない。明確な言葉で言及されていないこと自体が義務でない証拠だと私には思えるのだが、隠せるものなら隠した方がいいことは間違いない。女性のチャームポイントの中でも顔が大きな比重を占めることは言うまでもないからだ。また、顔を見せなければ、失礼な品定めの目に会うこともなければ、要らぬ媚をふりまく必要もない。

 義務とは思わないが、顔を隠す姉妹たちと付き合っているうちに知らずと影響されてか、何となく自分も顔を隠したくなり、また、隠すとどんな感じかを知りたくなって、サウディに住んだらぜひニカーブをつけてみようと考えていた。

 つけてみた印象は悪くない。なんだか自分が高貴な、貴重な存在になったような気がする。しゃれた下着をつけた日には、別にそれを誰かに見せるという訳でもないのに気持ちが弾む、という感じに似ている。とってもいいものをもっているんだけど見せてあげないよー、という幼稚な意地悪、かわいいエゴイスムを満足させてくれる。ムスリムでない外国人女性が頭を剥き出しに歩いているのを見ると、まあかわいそうに、みっともない、という気持ちになるから、早くも私は相当にサウディ人感覚になっていると言えよう。

 現代人は自己のアイデンティティー喪失に苦しんでいるが、イスラームの様々な装置は、アイデンティティーを守るために非常に有効に働いているように思う。誰もがみんな一様に真っ黒、という表面的なアノニム化は西欧的な目からはアイデンティティーの剥奪のように写るかもしれないが、その裏には、家族と女友達を除けば、私の顔を知っているのは私の夫だけ、あなたがたの誰もが知らないものを私は持っているのよ、という思い、「私は世界でたった1人の存在」という―もちろん当たり前のことだが、多くの人間が実感できずに、それゆえ自分の存在を粗末にしている―自己に対する誇りを自覚させてくれる。

 旅行中は、サウディを出国するときはもちろん、エジプトでもチュニジアでも入国審査では顔を隠したままでなにもいわれなかった。ただ、アルジェリアでは顔を見せろ、と言われた。顔を見せなければ本人かどうかわかりようがないのだから、それを要求しないほうが不思議だが、別にトラブルも起こっていないのだろう。

 トランジットで1泊しただけのチュニスは、タクシーで名所を回ってもらっただけだが、それだけの印象で言えば、「チュニスなんてフランスの田舎と考えればいいですよ」と言われて来た、という同国の専門調査員の言葉がそう外れていない、という感じだった。町の美観を保つために建物は白、窓枠は青に塗ることが決められているというチュニスは緑も多く、整然とし、西洋的な匂いが漂っていた。

 次のアルジェは、同じフランスの植民地だった地でもチュニスとは大きな違いで、降り立った空港からして古びて陰気で、国の経済的、政治的な困難を象徴しているようだった。仏文を専攻し、卒論ではアルジェ生まれのカミュが同地を舞台にして書いた作品『異邦人』を扱った私だから、アルジェはいつか行って見たいあこがれの地だったし、イスラーム入信のきっかけになった友人や入信後世話になった姉妹がアルジェリア人だったから、大いにシンパシーを持っていたのだが、爆弾テロのあったばかりの空港は警備も物々しく、政府のイスラーム原理主義運動の弾圧、それへの報復として相次ぐ警官殺害など、最近の出来事を思い返すにつけ、国の暗い未来に気持ちが沈んだ。

 着いた翌日、大使館に顔を出すという夫とは別行動をとった私は、タクシーに乗って町を案内してもらった。街をタクシーで通り抜けながら行く人を眺めると、ヨーロッパスタイルの、髪を剥き出しにした若い女性も少なくない。その一方で、丈の長い服にスカーフを被った女性もかなりいる。顔を白いレースの入った小さな切れで隠しているのはお年寄りの女性で、体には白い布のを巻き付けたようにしている。カビリーの伝統的な服装らしい。若い女性で顔を隠している人は4日の滞在中2人ほど見かけただけで、エジプトの格好とほぼおなじだった。顔を隠している人を見かけることが少ないのは、数が少ないからだけでなく、そういう女性はむやみに外出しないからだろう。時々見かけるのは、エジプトでも少数派ながら若い女性の間で増えているオバQのようなヒマール姿だ。色は黒、焦げ茶、灰色と地味なので、カラフルな格好をした人々の間で割と視線を引く。この格好をしている女性は宗教的にかなり意識が高いと考えていい。袖付きになっているところと頭のところがヘヤバンド風になっていて下から色違いのスカーフを覗かせているところがエジプト式とは少し違う。その格好をした女性はだれも修道女のように清楚で気品があり美しい、と思うのは贔屓目か。

 もう2年前になるがフランスにいたころは、当時台頭しつつあったFIS(イスラーム救国戦線)に関し入ってくる情報といえば、髭もじゃの男が1人暮らしの女性にいやがらせをした、とか、喫茶店で椅子を嫌って地面に座り込んだなどという極端な話や、FISの台頭と共に女性の権利が再び奪われつつある、などという否定的なものばかりだったので、FISの本当の実態、国民の評価を今回の滞在中にはぜひ知りたい、まじめなムスリム女性と話をしてみたいと思っていた。そこで、アルジェのメイン通りで、学生らしい若い女性を呼び止めてみた。

 話をしたいのだ、という私に快く応じてくれた彼女は、医学部の学生だった。1年半ほど前から長いヒマール姿をするようになったという。キャンパスでは異彩をはなっているらしいが、もちろん彼女はそんなことを気にしていない。気になるのはいかにアッラーの気に入るかだけだ。就職の障害にならないか、と尋ねると、優秀ならば格好に文句はつけられないだろう、と楽観的な答えが返ってきた。FISについてどう思うか、FISの台頭と共に女性の自由が奪われつつある、という見方が西洋ではされているが、実態はどうか。そう尋ねると、FISは国を正しい方向に導こうとしている、自分の両親は自分の学業を応援してくれている、女だから家事さえしていればいいなどということはない、イスラームは西洋の女性観とは違った価値観をもっているから西洋的な見方では理解できないのも無理ない、と私の突っ込んだ質問に少しも動じる様子がなく、静かに答えてくれた。彼女のすがすがしい顔、落ち着いた話振りには、心が平安に満たされていることが滲み出ていて、女性の抑圧などという問題とは無関係なことが聞かずとも知れる。こうした心の平安を得たムスリマに接した後で、西洋人女性に会ったりすると、どうしても病的な印象をもたざるを得ないのは、どちらの生き方が本当の女性の開花と結び付いているかを如実に物語っているような気がする。

 道を歩きながら20分ほど話を聞かせてくれた姉妹は、原理主義運動に対し政府が弾圧に転じた今の状況に関しても決して悲観的な様子はなく、確かにイスラームについて話にくくなったが、黙らそうとしても私たちはイスラームについて話しやめないのだ、と穏やかに、しかし確信に満ちて語ってくれた。

 街の人々の様子、キブラ(礼拝のために向かうメッカの方向)を聞いてもすぐには確信をもって答えられなかったホテルのフロントの女性、少ないモスクの数、アザーン(礼拝の呼びかけ)に応じてモスクに集まってくる人の少なさを見るにつけ、イスラーム復興の動きがあるといっても、国民全体の信仰心の高まりはまだまだだな、したがって国の立て直しもまだまだ遠いな、という悲観的な印象をもちつつあった私は、彼女との話に大いに勇気付けられた。彼女たちは希望を捨てていなかった。アルジェリアを救えるのはイスラーム以外にないだろう。

 アルジェの空港でリヤードに戻る夫と別れた私はひとりでパリ行きのエール・フランスに乗り込んだ。乗客のほどんどはアルジェリア人らしかったが、ヴェールを被った女性はお年寄りの2、3人を除けば私だけだった。格好は黒い「イラン・シーア派風(?)」、顔を見るとアジア系、その上フランス語を流暢に話す私の存在はきっと誰の目にも奇妙に写ったことだろう。

 2年ぶりのフランスだった。カトリック国ということを別にしても、アルジェリアなどからの移民労働者が国内の深刻化する失業問題に拍車をかけ、また治安の悪化を招いていると考えるフランス人のアラブ、イスラームに対する感情はいいものでないから、さすがに黒のヒマールはまずいかな、と思い、色柄の服も用意したのだが結局着安さから黒の服でほとんど通してしまった。店などでの人の応対はまったく自然だった。道で荷物を運ぶのを手伝ってくれた中年のフランス人男性は、「手伝いましょうか、シスター」と私に呼びかけたから、ひょっとしたらカトリックのシスターと間違えられていたのかもしれない。実際、あるとき地下鉄に乗っていたら黒衣のカトリックのシスターが乗り込んで来たのだが、その格好が、首からつるした十字架を除けばまったく同じと言っていいくらいにそっくりで思わずにっこり笑いかけそうになった。

 今回のパリ行きの目的はかつて世話になった姉妹たちに再会することを除けば、イスラーム、女性問題に関する本を集めることだったが、あちこちの書店を回るうちに用意していったカバンには入きれないほどの本を買い込んでしまった。そのために出発の日にはホテルから100メートルほど先にある駅まで30キロを越えるカバンを引きずって運ぶはめになってしまったのだが、3歩歩いて一息休む、という調子で進んで行っても手を貸そうか、と言ってくる者はみごとに誰ひとりいなかった。その間に2つ横断歩道があって、そこはさすがにひとりでは青信号のうちに渡り切れないので、通りすがりの男性に手伝ってもらった。声をかければ快く応じてくれたが、自分から手伝おうとは決して言ってこないのだった。大変そうだな、という顔をするでもなく、誰もがまったく無関心に私の横を通りすぎていった。私はひとりで奮闘しながら腹立たしい気持ちにも惨めな気持ちにもならなかった。むしろおかしくってしかたなかった。これがエジプトだったらみんながよってたかって助けてくれるだろうなあ、と思った。ムスリムだったら人が苦労していたら助けないではいられないのだ。重い荷物を持っている人がいたら手伝ってあげなさい、と預言者(彼に平安あれ)はちゃんと言っている。ムスリムでない人達はなんとかわいそうな人達だろう、へとへとになりながら私は自分のムスリムである幸福をつくづく思った。

 帰りの飛行機はサウディアだったが、サウディアに乗ってほっとするのは、「ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム(慈悲あまねく慈悲深いアッラーの御名において)」でアナウンスが始まることだ。そして離陸にあたってはアッラーに旅の安全を祈る放送が入る。サウディアラビアの形式主義を批判する向きもあるが、ともかくイスラームを国民の宗教と前面に掲げる姿勢は非イスラーム圏外から来るムスリムにとっては本当にうれしい。テレビのニュースも「ビスミッラー・・・」で始まるし、天気予報も、「アッラーの御意志ならば、明日の天気は・・・」と言っている。日常の至るところで神と共にあることが喚起される。信仰が生きているのだ。