エジプト通信追記

 ラマダーンが明けてから1月足らずの5月1日、1か月前には予想もしなかった事の成り行きから、私は1年の予定だったエジプト滞在を9か月で切り上げ、日本行きの旅客機に乗り込んだ。隣の席に座るのは私の夫となるべき人だった。

 エジプト滞在が5か月を過ぎるあたりから私は、エジプトに来た当初から心に暖めていたある計画を実行に移し始めていた。計画とはエジプト滞在中に結婚相手を見付けることだった。エジプト人と結婚するなど、初めは自分自身でも冗談半分だったのだが、エジプトでのムスリムに囲まれた生活に馴染むにつれ、異教徒の国、日本にひとりで帰ることに不安と苦痛を覚え始め、また数少ない日本人ムスリムの間から結婚相手を見付けることの困難を認識し始めたこともあって、次第にエジプト人との結婚を真剣に考えるようになっていた。不思議なことに(アッラーフアクバル)、私がエジプト人との結婚を真剣に考え出したころになって、それまでは気配もなかった見合い話が一時に幾つも持ち上がった。エジプトで結婚し、エジプトに住むというのなら引く手はあまただったろう。日本人女性は謙虚で従順で妻にするにはもってこいとの定評があるからだ。一昔の大和なでしこならともかく、今日の日本人女性に謙虚で従順などという形容があてはまるだろうかと我々としては苦笑を禁じ得ないが、エジプト人や欧米人と比較するならその形容がはるかに日本人女性にあてはまることは間違いない。それはともかく、私の場合難しい条件を付けていたからそう簡単に求婚者が現れるはずはなかった。私は日本に住むことを第一条件に掲げていたのだ。

 姉妹の中には「そんな条件を掲げていたらいつまでたっても結婚相手は見付からないだろう」と心配してくれる者も少なくなかった。しかし、私は困難を承知で、この条件だけはどうしても譲れなかった。私が日本に固執したのは個人的な好みの問題ではない、イスラームのためだった。私がイスラームに出会い入信したのは、留学先のフランスだった。日本で、しかも地方都市に住んでいたらイスラームに出会うチャンスはほとんど皆無に近い。日本人にはムスリムの素地をもった人、イスラームの真理をそれとは知らずして求めている人がたくさんいると私は確信していた。その人達にイスラームの便りを伝えなければならなかった。今こうしている間にも以前の私がそうだったように必死の思いで真理を求め、見付けあぐねている人がいるかと思うと、居ても立ってもいられない気持ちに駆られた。結婚相手を求める際に「敬虔なムスリムで、イスラームの理解が深く、日本でダアワ(イスラーム布教)をしたいという私の夢に賛同してくれる人」という条件をつけたのもそのためだった。

 驚いたことに、この条件を受けてもいい、と言ってくれる人が何人も現れた。どの人もまじめでいい人らしかったが、なかでもイスラームの理解が深く、「アッラーを喜ばせることが自分の生の最大の課題だ」と語り、可能ならば日本に行ってもいい、と言ってくれる人がいた。信仰が雰囲気に現れた穏やかな人で、この人ならばいいかもしれない、と話を進める気になったのだが、いざ相手が現れ、結婚が現実味を帯びてみると、エジプト人の夫を日本に連れて来るという私の計画がいかに無謀かが見え始めた。実際の経験者にアドヴァイスを、と思って手紙を出したパキスタン人の夫を持つ友人から返信と共に国際結婚のハウツーを書いた本が届き、それを読んで一層考え込まざるを得なくなった。欧米人なら語学教師という手があるが、それ以外の外国人が日本で就職口を見付けるのは至難の業だった。法律上の手続きも実に複雑なものだった。信仰さえあればどんな困難でも乗り越えられる、と楽観的に構えていた私だったが、現実はやはりそう甘くはなさそうだった。相手の方も、最初こそ簡単に「日本に行ってもいい」と言ってはみたものの、時を置くほどにその現実性に疑いをもち始めたらしく、エジプトに住んで時々2、3か月日本に帰る、という形は取れないだろうか、と提案して来た。そのほうが無難なことは確かだった。困難を前に尻込みをしたのではない。アッラーのための困難だったら喜んでうけるつもりだった。ただ、今ここで無理を押し通すのはアッラーの意志に逆らうことではないだろうか、アッラーはむしろ私にエジプトに残ったほうがよいと言っているのではないだろうか、そう考えて私は迷った。8か月のエジプト滞在を通して知ったイスラームに密着した生活を離れることもはっきり言って苦痛だった。私が日本に帰ったらイスラームから遠ざかるのではないかと心配する姉妹も少なくなかった。アッラーは私にエジプトに留どまれ、エジプトにこそ私のすべきことがある、と言っているのではないか、そんな気がした。

 迷いの中で私は日本の両親に宛てて手紙を書き送った。
 「お元気ですか。私の入信記は届いたでしょうか。最後まで読んだら私の爆弾宣言に気が付いたと思います。そう、私はエジプト人との結婚を考えています。どう考えても日本人と結婚するのは無理と思えるからです。ムスリム以外の人とは結婚出来ないからです。それは単に宗教がそれを禁じているということ以上に、私自身が信仰を分かち合えない人間を好きになることが出来ないからです。もちろん少数でも日本人ムスリムはいますが、半端な信仰の人では私にはもの足りません。信仰も知識も深い人といったらなかなか日本人から見付けるのは難しいでしょう。ですからこのままエジプトから独り身で帰ったら一生独身となる可能性が大きいです。」

 「実は最近ばたばたと4人の人とお見合いのようなものをしました。まじめなムスリムで私と日本に来てくれる人、という条件で誰かいないかと人に頼んでいたところ、最近になって1度に「考えても良い」と言ってくれる人が4人も現れたのです。」

 「・・・さて、3人目の人のことを話しましょう。とても落ち着いた、信仰が顔にも雰囲気にも現れた感じの人で、子供のころフレンチスクールに通っていたということでフランス語を話します。34才で、ホテル関係の仕事をしているそうです。日本でダアワ(布教)をしたいという私の夢を語ったところ、それは大変いいことだ、今は高齢で病気がちの母がいるから動けないが、2、3年先なら日本に行くことを考えてもいいと言ってくれました。その時までは私が日本とエジプトを行ったり来たりすることも可能だろうと言うので、日を変えてもう1度会うことにしました。」

 「その間にいろいろ考えました。仮に彼が2年後に日本に行くとして、既に36才。既に一定の地位が出来上がっているべき年にゼロからスタートするのはどう考えても難しいでしょう。そうして考えているうちに、エジプト人と結婚して日本に住む、という計画がいかに非現実的かを意識するようになってきました。それでは数年日本に住み、いずれはエジプトに戻るというのなら可能だろうか、と考えてみました。次に会うときにはその辺を話し合ってみようと思いました。」

 「2度目に会ってみると、向こうの方もその間に、日本に定住することは難しいだろうという思い強めていたようで、こちらに住んで、ちょくちょく2、3か月日本に帰るようにする、という形を取ることは出来ないだろうか、と言って来ました。日本に住む手がないとしたら、次の解決法としてはこれがベストだろうと思います。しかし、言うは易しいけれど実際やるとなったら、そううまく事は運ばないでしょう。様々な差し障りが出来、そうおいそれとは日本に行けないでしょう。第一お金がかかります。また、数か月日本に行くとして、その間にどのくらいのことができるかも疑問です。ダアワには時間が要ります。また、普通に生活し、人と触れ合うなかでイスラームの良さをわかってもらう形が一番理想的です。もともとの計画では大学を根拠地とし、学生と定期的に勉強会を開くという形でダアワを進めるつもりでした。それができないことは非常に残念なのですが、アッラーは私に別の道を、別の使命を示しているのかもしれません。エジプトに住みながら、こちらで出来る形で日本人へのアピールを行っていけ、ということなのかもしれません。」

 「エジプトに留どまった場合私になにができるか、今はまだ疑問です。しかし、日本に来てくれる人という条件で結婚相手を求めていった中で、この3番目の人と出会い、軌道修正を余儀なくされているというのもアッラーの定めかもしれない、と今ゆっくりゆっくり考えています。これまでは日本に帰ることしか頭にありませんでしたから、この軌道修正は非常に辛いことです。特に、私を信頼してエジプトに送ってくれ、帰りを待っているお父さん、お母さんのことを思うと本当に心が痛みます。でもきっとアッラーが私に最善の道を開いてくれるだろうと信じます。」

 「とりあえずは経過報告まで。本当に勝手なことばかり言って申し訳ないのですが、どうか私が日本人と結婚するのは無理だということを前提に、よくよくなにがベストかを考えてみて下さい。私も決めかねています。1年だけと思っていたから細かいことは気にせずエジプトの生活を楽しんでいましたが、ずっと住まなくてはならないかもしれないという目で見直してみると厭なことが目につき、とても耐えられそうにないような気もします。みんなと離れて住まなくてはならないこと、したい放題をしてその恩返しも出来ていないことを考えると、どうしても日本に帰りたいという気持ちを振り切ることが出来ないのですが、日本に帰って一生独身で過ごすか、こちらで結婚するかの2つに1つだろうと思います。幸い、今結婚を考えている人はとてもいいムスリムで、イスラームについてもちゃんとした先生に付いて勉強した人です。そんな人を紹介されたのは本当に幸運だったと思います。この人なら殆ど妥協なしに、つまりほとんど私の理想の適った形で結婚できるだろうと思います。次には彼の家を友人と共に訪ね、お母さんとも会ってみようかと思います。それをいつにするかはまだ決めかねています。もう少し考えてからと思っています。どうか、お父さん達も考えて下さい。どういう形になろうと、お父さん達には精一杯の誠意を尽くそうと思っています。そのことは信じて下さい。」

 「本当にいろいろとごめんなさい。新しい進展があり次第お便りします。性急には考えないようにしようと思います。アッラーが道を示してくれるのをゆっくりと待とうと思います。」覚悟を決めるつもりで進行中の結婚話を両親に打ち明けたものの、迷いは深まるばかりだった。そんなとき、やはりどんなことがあっても日本に帰ろう、と心を決めさせる2つの出来事があった。

 1つは、お父さんを亡くした姉妹をお悔やみに訪ねたことだった。肉親を亡くすことは辛いことだ。慰めるほうも言葉がない。しかし、とてもいい死に顔だった、と語る姉妹の表情は悲しげなものの明るい。神を信じる者にとってこの世の死はすべての終わりではない、復活の希望があるのだ。姉妹の家を後にしながら私は思った―「ムスリムとして死ぬのならいい、しかし、もし今わたしの父が死ぬようなことがあったら私は悔いても悔いきれない思いを残すことになるだろう」。両親がムスリムになるかならないかはすでにアッラーの御許に記されている。ならない定めかもしれない、しかし悔いを残さないためには私にできるだけのことはやっておかなくてならない、私がエジプトに留どまることは両親からムスリムになるチャンスを奪うことに等しい。やはり私は日本に帰らなくてはならない、と強く思った。

 私に日本に帰ろうという気持ちを固めさせたもう1つのきっかけは語学学校の先生との会話だった。外国人ムスリムと対象とした無料のアラビア語学校の先生は、信仰が篤くイスラームに関する知識が深いばかりか語学教師としても非常に優れていた。出身がチュニジアのせいでフランス語を話せるため、入学当初私は彼に日本でのダアワの夢を語ったことがあったのだが、その彼とひさしぶりに授業前に話をする機会があった。お見合いをしているということはしばらく前に伝えてあったので、その後どうなったかと尋ねてきた彼に、私は現在の迷いをありのままに語った。すると、彼は、難しいだろうが日本に帰ってダアワをするという希望を貫き通すようにと励ましてくれた。私の周囲からは私のエジプト定住に賛成する声しか聞こえなかったから、彼の励ましは意外だった。他のどんな理由でもない、アッラーのために日本に帰ろうというのだから、先の予想が付かなくてもきっとアッラーが道を開いてくれるだろう。自分自身、貧しい家庭の出で大変な苦学をした、そしてヴェールを被ることを禁ずるようなチュニジアにいられなくなり、アフリカ人の妻とパスポートも持たずに国を出なければならなかった、しかしいつでも思わぬところから救いの手が現れ、今日までやってこれた。明日の糧を心配することはない、アッラーと共にいる者にはアッラーが糧を与えてくれるというクルアーンの言葉の真実だ。あなたは険しい道を行くように定められた人だ、なぜならそれに耐えうるだけの強さを持っているから。先生はそういって私を励ましてくれた。

 彼の言葉に力を得た私は、今度進行中のお見合い相手に会ったら、迷わずもう1度日本行きについて1から話し合ってみよう、そして難しいと言うのなら彼は諦めよう、別の人が現れるまで根気よく待ったらいいじゃないか、と心を決めた。

 断られてもともと、と心を決めて次に会ってみると、意外にも彼は、すべてはアッラーの御心次第だ、生活の心配さえなければ日本に行くことは構わない、と言い、有給の宣教者としてダアワの組織から日本に派遣されるという形を取ることが可能かもしれない、という私の提案にも賛意を示した。ちょうど断食月ラマダーンに入ったところだったので、断食月が明けたら私がエジプト支部長と面識があるダアワ組織の事務所を一緒に訪ねてみよう、ということで話が決まった。

 日本に帰ることを諦めようとしていたころよりは明るい希望が見えて来たわけだが、そのわりに私の気持ちは晴れなかった。何事でも大きな決断をする際にはアッラーに意見を求める特別のお祈りをすることになっているのだが、そのお祈りをしてもすっきりしない、どうも気が重い。気が進まないのに断る理由もなく困ってしまった、という感じだった。

 さて、折しもラマダーン。ラマダーンは、クルアーンの啓示が初めてあった月、また一番頻繁に啓示の下された月で、アッラーと信者の距離が最も近付く聖なる月である。私はラマダーン月に入った時、この月の間に結婚問題に関しアッラーから解答を得られるのではないかとひそかに期待した。毎晩のようにモスクにタラーウィーフ(ラマダーン中の夜の礼拝)に通った熱意の裏にアッラーからの見返りを期待する下心があったつもりはないが、礼拝をあげる心の片すみには絶えず結婚問題に関する悩みを訴える気持ちがあったと思う。

 だから、いよいよ今日で断食も終わりというラマダーン30日には、断食をやり遂げた満足感と霊的な充足感の一方で、結局答えが得られないままに終わってしまったという軽い失望感があった。しかし、まさにそのラマダーン最後の日に、まったく私の予期しなかった形でアッラーは私の結婚問題に解答を用意していたのだった。

 その日の昼過ぎ、何かの用事があって普段からなにかと世話になっていた日本人ムスリムのハサン氏に電話を掛けた。すると、今晩の断食明けの食事を一緒にどうぞ、という誘いを受けた。見合いの場に立ち会ってもらうなど結婚問題については日ごろから相談に乗ってもらっていたハサン氏だったから、アッラーからの解答を期待したラマダーンももう終わってしまう、今進行中の人とはどうも気が進まない、別の申し込みがあったのでその人と会ってみることにしようかと思う、などということを相談してみたいと考えていた矢先だったので招待を受けることにした。

 行ってみると、ハサン氏にはハサン氏のほうでまったく別の思惑があったのだが、私はふと思い付いて2週間ほど前にカイロを訪れたハサン氏の先生がその際にハサン氏に話したという事について彼自身がどう考えているかを聞いてみる気になった。その先生にはハサン氏の家で紹介され、その際に私はちらっとエジプト人との結婚計画について話したのだが、その後で先生はハサン氏に私と結婚するようにと提案、というよりはもっと強い口調で語ったというのだ。その話を後からハサン氏の口から冗談っぽくきかされた時には私のほうも笑って聞き流したのだが、それについて実際のところどう考えているのかを私は知りたくなったのだ。

 ハサン氏なら年格好もちょうどよかったし、信仰が篤くアラビア語が読めてイスラームの知識に精通しているという私の希望にも適っていた。実を言えば、数か月前に結婚の世話をするのが好きな(単なる世話好きというのではなく結婚を奨励するイスラームの性格上のもの)周囲のエジプト人が私とハサン氏を結ばせようと骨をおってくれたことがあったのだが、残念ながらハサン氏のほうにその気がなくて話は立ち消えとなり、以来私はハサン氏を「異性」として意識する必要はない人間、つまり兄弟のつもりで頼りにし、結婚問題の相談にも乗ってもらっていたのだ。ハサン氏の先生からの「結婚命令」に笑ってしまったのも過去にそういういきさつがあったからだった。

 そういうわけで特別な感情こそなかったけれど、普段から尊敬もし頼りにもしていた人であったから、ハサン氏のほうでその気になってくれれば私の方に異存があるはずはなかった。それで私は聞いてみたのだ―「先生のお言葉について、どう考えられているのですか」。私と結婚しても良いという気持ちがあるのか、まったくないのか。

 結局その日、ハサン氏はたくさんの「しかし・・・」を重ねた末、直前まで思ってもみなかった言葉を口にするはめとなり、私の結婚は予期しなかった展開を繰り広げることとなった。私はこの予想外の展開をアッラーの取り計らいと信じて疑わない。やはりアッラーはラマダーンを通して訴えた私の祈りを聞き届け、最後の日に、しかもまったく予期しなかった形で答えを与えてくれたのだ。アッラーフアクバル。アッラーに任せておけばきっと道は開ける、自分の思惑が通らないこともあるだろうが、アッラーは私にとって何が最善かを熟知し、それを与えてくれる、そんな思いを強く持った。

 ハサン氏との結婚が決まると、それからが大変だった。ハサン氏はカイロ大学で学位を取得し1か月足らずの5月1日には帰国を予定していたからだ。一緒に帰ると決めたら、その前にやっておかなければならないこと、会っておかなければならない人が山ほどリストアップされ、あっと言う間にスケジュール帳は予定で一杯になった。

 急に決まった結婚話にホームステイ先の家族、姉妹たちは喜んだが、それと同時に私の帰国が早まったと知って辛がってくれた。私の方は、新しい将来が開けること、帰国できることで幸福感が膨らむ一方だったし、第一片付けておくべきことに追われ感傷に浸っている暇はなかったが、最後の1週間に入るとさすがに人に会うにつけ「この人と会うのもこれが最後」、何かをするにつけ「これをするのもこれで最後」という思いがよぎり涙を堪えなくてはならないことが多かった。

 ハサン氏とのイスラーム式の婚約式は証人2人の立ち会いでごく内輪に済ませてしまっていたが、帰国の2日前、結婚祝いとお別れのためのパーティーをスージーの家で開いた。私の結婚を祝うために姉妹たちは誘いあって集まってくれ、スージーの家の大きなサロンが足の踏み場もないほどの姉妹達でうずまった。信仰の下に結ばれることのすばらしさをつくづく実感する一時だった、アルハムドリッラー。

 私はその姉妹たちの前で、感謝の言葉に代えてクルアーンの一部を暗誦した。涙をにじませて傾聴してくれた姉妹もいた。実際、私にとってクルアーンを読めるようになったことはどんな知識を得たことよりも大きな収穫、大きな喜びだった。他の読み物はちっとも読めるようになっていないのに、クルアーンだけはその独特なリズムに引かれてか割合と流暢に読めるのだから不思議だ。

 お別れパーティーも終わった翌日、すべきこともすべて片付き、ようやく久し振りに家で落ち着く時間がもてたので、家族のみんなに頼んで記念に1人1人言葉をカセットテープに吹き込んでもらうことにした。まじめなお兄さんは前の日から言う言葉を考え、書き記したものを吹き込んだようだ。モスクの説教のようで実に堂々とし、内容も教え諭すものだった。お父さんもイスラームの心得を長々と語り、一旦結びの挨拶をしているのだが、言い足りない気持ちが残ったのかその後もしばらく言葉を続けている。その後からの付け足しのほうが自然体で生の声が現れていた。「ハウラよ、あなたは家族の一員のようだったが、私達はあなたに対し精一杯のことをしただろうか、あなたはこの家で幸せだったか、本当に幸せだっただろうか」―そう尋ねるおとうさんの声は震えていた。私もこの箇所は涙を流さずには聞けない。お父さんは根気よく私の発音を直してくれ、私は何十遍も「ハー」「ハー」などと言わされたものだった。

 姉のハナー、妹のワルダ、そして末っ子のムハンマドも気取ってイスラーム的なアドヴァイスをしたあと、クルアーンからの朗読を吹き込んでくれた。ワルダはまじめな調子で最後の挨拶をした後で、「私達のことを忘れないでね、ハウラ、いい?」といつもの調子を出しているのがかわいらしくって何度聞いても笑ってしまう。

 それからお母さん。よそいきのしゃべり方をしているみんなと違ってお母さんはまったくいつもの通りの口調で、「ハウラ、私達はみんなあなたが大、大、大好きで、それは誰よりアッラーがよく知っている。あなたを本当の娘みたいに思っていた。お幸せにね。子供は10人なんて言わないで2人でもいいから。・・・手紙ちょうだいね。一言『元気だ』だけでもいいのだから。あなたが住んでいた家のウンム・アフマドより。そうそう、私の作るようなおいしいコシャリを作れるだろうね。ちゃんと教えたのだからね。マハシーとかの味もちゃんと覚えていてよね・・・」。私は笑って聞いているうちにぼろぼろ涙がこぼれて来て困ってしまった。フスハ(文語のアラビア語)を話さないウンム・アフマドとは言葉が通じないため、思い違いなどもあって随分たいへんだったが、本当に気の良いおかあさんだった。言葉が通じない分だけ体で通じるつながりができていたと思う。大声でいつも叱られているよう気分だったけれど、この話しっぷりももう聞けなくなるかと思うと本当に辛くて泣けてきた。

 出発の当日はウンム・アブダッラーことアーイダと、アマルと、家のウンム・アフマドお母さんが空港まで見送ってくれることになっていた。アーイダには本当に世話になった。アラビア語のほとんど通じない最初から、それこそ言葉を理解しない赤んぼうを教育する母親の根気をもって私にイスラームを1から教えてくれた。彼女の家にはいつも姉妹が寄り集まっていた。私も、学校から帰った子供が1日にあったことを逐一に母親に報告するように、なにか新しいことがあるごとに訪ねては彼女に話した。他の人の話はよく理解出来なかったが、彼女の言うことは何故か理解出来たし、彼女のほうでも私がたどたどしいアラビア語をかき集めて言わんとすることをよく察してくれた。彼女の上にアッラーの祝福がありますように。

 アマルにも世話になった。日本語を話す彼女とは週1度定期的に会ってイスラームの勉強をしていたが、いつの間にか単に言葉が通じるという気安さだけでない、アッラーに対し同じ熱い思いを抱いているという心からの信頼関係が生まれ、思ったことをなんでも遠慮なしに言える本当の友情を築くことができた。私の帰国が決まったころ、ちょうどアマルはもっとイスラームのための時間をもてるようにと日本新聞社の秘書の勤めを辞めていた。お陰で彼女には私の帰国準備を手伝ってもらうことが出来た。車をもっていた彼女がいてくれたことでどれだけ私が助かったことか。最後の3週間はほとんど毎日行動を共にしていた。これもアッラーの取り計らいだと思う、アルハムドリッラー。

 出発の日もアマルが車で空港まで送ってくれることになっていた。12時の離陸に間に合うように9時過ぎに家を出た。その日私は、普段着慣れた黒の服と黒のヒジャーブに替えて色柄の服と白いヒジャーブを身につけた。黒ではあまり異様だろうからと揃えた日本で着るための衣装だ。着慣れないためなんだか照れ臭い。

 出発前にこの家で最後の礼拝を、と私が礼拝している間にお兄さんたちはトランクを家の前に止めた車に積み込んでくれていた。階段を降りて見送りに出てくれたハナーとワルダを見ると、2人ともいつのまにか目を真っ赤にしていた。彼女達とはここでお別れだった。交互に彼女らのきゃしゃな体を抱き締めながら涙、涙だ。

 車に乗り込んでふと家のバルコニーを見上げてみるとお父さん、お兄さんたちが身を乗り出して見送ってくれていた。家に帰って来る度に誰かいるかなと見上げていたバルコニー。よくウンム・アフマドお母さんが大声で下に向かって話をしていたバルコニー。そのバルコニーをこうして見上げるのもこれでもう最後かと思うと急に身を切られるような別れの辛さが身に迫り、もう車が動き出すまで顔を上げることができなかった。こうして私はこの日、9か月という短い月日の中で3年半のパリ生活も及ばないぎっしりと思い出の詰まったエジプトを後にした。アッラーの祝福がみなの上にありますように。そしてアッラーの導きが今後も私の上にありますように。