3月28日

 数日前から家の一番上のお兄さんの姿が見えない。大方モスクに籠もっているのだろうと思っていたが、聞いてみるとやはりそうだった。熱心な信者の中にはラマダーンの最後の10日をモスクに寝泊まりし、礼拝とクルアーン朗読三昧で過ごす習慣があるからだ。もちろん預言者ムハンマド(彼に平安あれ)の慣行に倣ってのことだ。日常生活に密着し、聖俗を分離しないイスラームの信仰において唯一「修行」的性格をもった慣行といえよう。女性の信者の中にも、この10日間を食事を取る以外は自室に閉じこもってクルアーンの朗読に明け暮れて過ごす人たちがいるらしい。普通はなかなかそこまではできないから、空いた時間はなるべくクルアーンを手に取るようにするぐらいが精一杯だ。バスに乗ってもクルアーンを読んでいる人をよく見掛ける。道を行き交う人、バスに乗り合わせる人のことごとくがアッラーに思いを向けているのかと思うと胸が熱くなる。

 もちろん誰もが一様に敬虔な思いを抱いているわけではない。空腹と寝不足による疲労からついイライラを高じさせている輩もいる。ラマダーン中は普段より1時間ほど労働時間が短縮されるので、午後3時過には帰宅を急ぐ自動車で道路はいつも以上の渋滞となる。エジプト人の運転は日本人の運転マナーからはとても想像の出来ない自転車というか、ともかく隙間さえあればどうでもつっこんでいくから、接触事故が非常に多い。普段でさえ多いのがラマダーン中はさらに増える。私自身バスに乗っていて幾つもそんな事故を見掛けたし、乗ってる当のバスが接触したりされたりしている。当然運転手同士が言い合いを始める。大抵は被害を受けた方が怒りをぶちまきたいだけぶちまき、最後に相手の「マレーシ(悪いな、まあ気にするな)」に言いくるめられて別れる。双方が興奮して殴り合いになりそうな時は、まわりの通りすがりの人間が止めに入る。「いさかいがあったら仲裁にはいるように」と預言者(彼に平安あれ)が言っているからで、日本人のように面倒に巻き込まれないように素知らぬ顔で足早に去る、なんてことはしない。

 タラーウィーフの礼拝は幾つかのモスクに行って試しているのだが、ドッキーにあるドクトル・オマルのモスクがやはり最高だ。その近くのモスクに行っても人ががらがらなのに、ドクトル・オマルでは女性だけで300人以上入る中庭に時には入り切れないほど人が集まるのはやはりみなここのよさを知っているからだろう。他のモスクではクルアーンの朗読が右耳から入って左耳から抜けて出てしまうのに、ドクトル・オマルの朗読は、心に食い込む。こちらにきて8か月、アルハムドリッラー、アラビア語でクルアーンが読めるようになり、朗読を聞いていても部分部分かなり理解出来るようになったのだが、その部分部分の言葉が心にずんずんと響く。朗読するイマームは涙もろく、朗読中に感極まって声がつまってしまうことが度々ある。そんな時は女の信者の間から嗚咽を堪える声が上がっているが、耳をすましてみると男の信者のいる壁を隔てた向こう側からも感動の渦が音とも響きともつかないものとして伝わってくる。言葉の切れ端ですらこんなにも心に響いて来るのだから、完全に理解出来た場合の感動はいかばかりかと思う。クルアーンの美しさ、力強さはやはり奇跡としかいいようがない。こんな神秘な力をもった書き物がほかにあるだろうか。

 8ラクア(1ラクアは屈礼と平伏礼からなる)のタラーウィーフの礼拝は3ラクアからなるウィトゥル(奇数)の礼拝でしめくくられるのだが、その最後に長いドゥアー(祈り)を捧げる(イスラームを知らない人は、1日5回も何をそう祈るのか、という素朴な疑問をもつか知れないが、イスラームにおける礼拝は純粋に神の崇拝、神の賛美を目的とし、願いごとをするドゥアー[祈り]はそれとは別物だ)。イマームの祈りの言葉にアーミン、アーミンと続けて行くのだが、これがまた心を打つ。ジーンなんて生易しいものではない、心がしどしどに溶けてしまう。