11月15日

 人の間の距離の取り方は、それぞれの民族によって異なる。握手ではなく頭を下げあって挨拶する日本人は、おそらく間の取り方が一番大きく、ほとんどスキンシップというものを持たない。そのため握手の習慣を持つ外国人と話すときは、それに慣れるまではどうも落ち着かない。彼らが近くに来すぎるためどうしても一歩下がりたい気持ちになるのだ。エジプト人となると、その距離はさらに縮まる。握手はもちろん、親しい間柄ではほおに接吻しあうし、歩くときは手をつなぐ。若い娘だけではない、男でもそうだ。道でひげもじゃの男が抱擁しあっているし、この間は制服姿のおまわりさんが仲よく手をつないで歩いているのを見掛けた。

 今でも近所のアーイダの家に毎日イスラームの勉強に出掛けているが、ベッドの上にあぐらをかいてひざを突き合わせて話をする。あるいはひじとひじ、腰と腰がくっつくほど近付いて来るので初めのうちは戸惑ったが、慣れてみるととても気持ちがいい。人の「暖かさ」が比喩的な意味でなくほのぼのと感じられる。

 礼拝の時もそうだ。「シャイターン(サタン)が間に入り込まないように」ひじとひじをくっつけ、足の小指と小指が触れ合うようにして並ぶ。信仰を分かつ喜びを膚で感じる一時だ。

 知らない人同士でも、バスに乗るのに手を貸して上げたり、子供をひざに乗せて上げたり、そんなことが特別な善行でもなんでもなくごく自然に行われている。そんなときにちょっと触れ合わせる膚と膚に少し大袈裟ながら「人類みな兄弟」といった思いが通う。愛は、男女の間に限らず、膚で感じるものだとつくづく思う。

 膚の触れ合わせばかりではない。食べ物の分かち合いも人と人との柵を取り除く。ひとつの皿をみんなでつつき、ひとつの水差しを飲み回す習慣はすでに話したが、うちのおかみさんが、青とうがらしをガリッとかじってから「これは辛くない」と私に突き出してくれたときにはさすがに驚いた。アーイダの家でも、子供の手からかじりかけのキュウリをもらったことがあるし、甘いものが苦手な私がデザートの牛乳ご飯を残すと、アーイダは同じスプーンでそのまま残りを末っ子に与えていた。そんなときはちょっと戸惑うものの、自分も家族の一員に加えられたようでうれしい気もする。日本など、家族の間でもはしや茶碗をめいめいが病的なほど潔癖に使い分けたりするが、あれはどういうことなのだろうか。